労働社会とは、つまるところ自分の時間を切り売りすることによって、その対価としてのお金(金銭)をいただく社会です。
今までは当たり前のように成り立ってきたそんな社会も、AI等の機械技術の台頭により終わりを迎えるのでしょうか。
近年は、労働現場のいたる所で「人手不足」などと叫ばれていますが。果たしてそれは本当なのかどうか紐解くと同時に。これから変わりゆく社会のなかで「経営者的考えを持つ人が増えること」が重要になってくるその理由について、見解を述べたいと思います。
人手不足は本当か?
近年、巷では多くの労働市場で「人手不足!」「人が来ない!」などと叫ばれていますが。それはあまりにも漠然とした言葉であり、主体となる発言者の立場を考慮しなければ正確な情報か否かの判断が出来なくなります。
発言者の立場によって嘘か誠かが決まるからです。
「人手不足」は真実であるし嘘でもある。
「人が来ない企業」という狭い世界の中では「人手不足」は真実であり、日本全体の広い市場の中では、労働力としての人間(人手)は十分に余っているからです。
では不足しているのは何か。
求職者側:「働きやすい魅力ある企業」
企業側:「自社の採用基準に達している人材」
あるいは
ブラック企業:「安く使える奴隷労働力」
と言ったほうが的を得ていると考えます。
人が来ない企業側からすれば「人手不足」は真実であり、働きたいと思える企業がない求職者からすれば「人手不足」は嘘であり「仕事がない(企業不足)」ということになります。
一方では
「人手不足」
一方では
「仕事がない」
この現状を企業側でもなく求職者側でもない第三者として中立な立場から分析すると、
企業が欲する人材と職を欲する者の求めているものに相違が生じている
ということになります。
つまり、今の日本の労働市場では仕事のミスマッチが生じているということです。
もっとラフな言い方をすると、
「人手不足!」
と叫んでいる会社は、仕事の内容・待遇等が求職者の望んでいる内容に達していないか。あるいはその会社が望むだけのスキルや魅力を持ち合わせている人が来ないという状態。企業と求職者との間にギャップが発生している状態です。
それが今の労働市場に起こっている現実であり、日本の労働市場全体でみれば「人手不足」という表現は誤りであると判断できます。
ブラック企業の役割
人手不足を語る上でセットになるのが「ブラック企業」。この言葉もまた最近よく聞く言葉のひとつです。
仕事の内容・待遇等が求職者の望んでいる内容に達していない企業と近いように思えますが。ここで取り上げるブラック企業の定義は、労働者のことを「安くこき使える奴隷だと思っている企業(経営者)」のことです。
そういった会社を見ると、本当に存在するだけの価値はあるのかどうか。そんなことを考えられずにはいられません。果たしてブラック企業は社会にとって必要なのでしょうか。
技術の進歩により効率化された企業からは、その分だけ人間労働力は必要なくなります。近年の大手企業による大量リストラのニュースを見るたびに、
「そうだよなー」
思わず声が漏れます。
その溢れた人たちは一体どこに行くのでしょうか。
自ら起業の道を選んだのか、それとももっと別の生産性の高い企業に就職したのか。これから需要が出てくる別の業界・企業に行ったのか。
今の世の中を見渡す限り、そういった分野はないだろうし。あったとしても、その仕事に見合うスキルを持った人材に限られるし、何もスキルを持たない者をそれだけ大量に雇用出来る企業は少ないはずです。
結局、その溢れた人達の受け皿となる可能性がある企業は、相対的に生産性の低い業界や企業、そしてブラック企業になるのではないでしょうか。
このとき、食っていくためには仕方がないと割り切り、相対的に魅力のない企業に入ることが出来ればまだマシですが。そういった企業にさえお断りされてしまえば、最後の選択としてそういったブラックな企業に就職することを選ぶ可能性は十分にあります。
都市化されたこの日本で食っていくため、生活していくためには原則「お金」が必要だからです。
現社会を内包しているのは経済システムであり、その経済システム社会の中で暮らしていくためには、ある程度の「お金」を獲得する必要があるからです。
遊んで暮らせるか?
では、労働市場からあふれ出た者はどう生きていけばよいのでしょうか。
やはりブラックな企業で働かざるを得ないのでしょうか。
「生産活動は機械やAIに任せて俺たちは遊んで暮らそう」
時折そういった声も聞こえてきます。
たしかに、これだけ技術も発達して高性能な機械が一台あれば、何千何万の人間の生活を養うことが出来るようになったのだから、原理的には生産活動は機械に任せてその他の人間は遊んで暮らせるように思います。
でも、現実にそうはなっていません。
その理由は、この世の中は経済社会に内包されており、普通に世の中の商品・サービスを利用するためには現状「お金」が必要だからです。社会の一員として生存していくためには「お金」が必要だからです。
現在採用されている資本主義の世の中で皆が働かなくても生きていける社会を築くには、機械が生産した富を分配することが前提だからです。
「だからってブラックな会社で働く必要はないだろ。遊びをビジネスにすればいいだろ」
そういった声も聞こえてきます。
たしかに、一部では遊びをビジネス化する動きも出てきていますし、実際に「お金」に換金出来ている者たちも出現してきました。
ただし、それらのビジネスに成功した者は、曲がりなりにも自らで食う(お金を獲得する)能力を持てる者達です。
そういった者たちのように自らで食う能力が備わった者であれば
「遊びをビジネス化(お金と換金)する」
という論理は成り立ちますが、自らで食う能力のない人間にとっては、結局その遊びをビジネスに出来た者の下で労働を行うという構図は変わらないように思います。
いつの時代でも、多量の果実を獲得できる人間もいれば、一方で果実を獲得出来ないだけならまだしも、ただただ果実を作ることだけを命じられる者が現れるのは人類として避けては通れないことなのかもしれません。
資本主義経済が一定の成長を終えゼロサム社会となったこの世の中に対し、民間市場だけで解決しようと考えているうちは、ブラック企業がなくなることはないのかもしれません。
そういった意味でも、機械が生みだした富を分配される仕組み(公共政策)が機能するまでは、ブラックな会社もある意味では必要な存在なのかもしれません。もっともそれは、今までのような資本主義的価値観でしか考えられない場合に限りますが。
余った人手の生きる道
これから高い確率で社会問題化されるのは、職に就かない(就けない)者が世の中に溢れることです。つまり、「お金」を獲得出来ない者たちが社会に溢れることです。
今はまだ求職者が企業を選ぶことができる状態かもしれませんが、早晩その状態も終わりを迎えるように思います。
人間労働力でなくても出来る仕組みを、経営力のある健全な企業が取り入れることになれば、それこそ最低限の人間労働力さえいれば企業は稼働しうるからです。
AIの急速な進歩により、僕たちが想像しているよりも遥かに早いスピードかもしれません。
「機械労働力のコスパ>人間労働力のコスパ」
という図式が成り立てば、利潤最大化を目指す資本主義化でそうなるのは必然です。
人間でないと出来ない仕事以外が機械に代替されていくその流れを止めることは不可能であるといえます。もっとも、そのように民間市場で活動している企業(個人事業であっても)が利潤最大化を目指すことは個人的にもおかしいとは思わないし、最大化するべきだと思います。
重要なのは政治だからです。
公共政策がその民間市場を補完することであり、利益を最大化する民間とその利益を活用する公共政策がバランスを取りあうことが、今後の人類が取るべき道ではないかと考えます。
「人は仕事がなくなると政治に関わり始める」
先人の言葉です。実際に今そのような現状になりつつあるように感じますし、その動きは強くなっていくように思います。
政治の話しはこれくらいにして、これから余った人手はどうしたらいいかを考えると…
民間の立場として余った人手(個人)が生きる道は、一つは先にもお伝えしたように
「食うためと割り切って相対的に魅力のない企業に入りお金を獲得する」
これに関しては、別に今に始まったことではありませんが、これからは今まで以上にこの考え方が必要です。
二つ目は、簡単ではないかもしれませんが
「自らで事業を興してお金を獲得する」
もちろん方法はこれだけではありませんが、根本的な考え方として
「自分で飯を食うか」
「他人に飯を食わせてもらうか」
という考え方を持ち合わせておく必要があります。
出来るなら、上記二つを複合でやることがリスク分散にもなり、精神的にも安定した状態を保つことが可能かもしれません。
そのことは余所でも散々言われ始めていることなのでここでは説明しませんが。これから民間市場にいる個人が事業を行い、成功者を増やしていくことは社会にとって必要なことだと考えます。
経済システムが社会を取り巻いている現状、余った人手が「お金」を獲得することは資本主義社会にとって必要なことだからです。
経済を活性化させる
ということで、タイトルでもある「なぜ経営者的考えを持つ人が増えることが今後の社会にとって重要なのか?」はもう言いつくしてしまいましたが。
つまりは、経済を活性化させるからです。
といっても、やってる本人がそんなことなど真剣に考える必要などなく。
「ただ食うために儲ける」
それでいいのではないかと思います。
無理に誰かのためなどと立派な目的など掲げず、素直に自分のためにと活動出来る者が市場に増えることで、結果的にそれが誰かのためになるからです。
原則として、事業の売上(利益ではない)は他者への価値の対価だからです。ある意味、見方を変えればチャンスです。
反面、自らで仕事を作り出せることが出来ず、作業的労働(時間の切り売り)のみでしか生計を立てることが出来ない者にとっては、今よりも苦しい時代になるかもしれません。
一点間違いないのは、これから一般的労働(特にAIで代替出来うる労働)の価値は低くなっていくことが良そうされるということ。
人間労働力(時間の切り売り)を、生活が出来るほどの「お金」に換金できる社会は終わりを迎えようとしています。
経営者の道を選択するか否かにかかわらず、そのことについては、これからも常に認識しておく必要がありそうです。
