教育こそが世の中に起きている様々な問題を解決できるのではないか

今日は教育の大切さについてお話しさせてください。

少し意識してみると、世の中の多くの人たちは、自分と直接かかわりのないことに対してあーだこーだと持論を展開しながら時間を割いていることに気づきます。

みなさん、別に時間が有り余っているわけではなさそうなのに、今日もいたるところでそのような光景を目にします。

たしかに、その中でもっともらしいことを言っている人たちも見かけるのですが。仮に、それらどんなに完璧そうな理論を発言しようとも。そしてそれらを実行したとしても、なかなか思うようにいかないのが現実なんだよな~。ということについて話してみたいと思います。

理解させるために奮闘する人たち

twitterなんかを見ていると、毎日何かしらの題材を挙げては議論されている光景を目にします。

各々が持論を展開し、「こうすれば○○できる」「このシステムを採用すれば上手くいく」そこには様々な意見が飛び交い。

「それは良い考えですね」

同調する方。

「いや、こっちのほうが得策じゃないか」

自論を展開する方など、様々な方がいらっしゃいます。

時にはそうやって議論した末に、パーフェクトだと思われるシステムがみつかるかもしれません。

民間で議論されたものが街や市や県、果ては国の決定権を持つ方々の議論の題材にまでなり、採用されるということもあるかもしれません。

それこそ町や市の代表者、国の代表者、そういった選ばれた方々が集まって考えるわけですから、それはそれは素晴らしいシステムが出来上がるかもしれません。

でも、仮にそれらのシステムを実施したとして、果たしてうまくいくのかどうか。そのような疑問が現れます。

誰が運営するのか

完璧だと思うシステム。いや、別に完璧だと思うシステムでなくとも構いませんが、そういったシステムは一体だれが考えるのか。あるいは、誰がそのシステムについての責任を負うのか。ここに視点を置いてみます。

そうすると、結局はそのシステムを考えるのも人間だし、システムの動きに責任を負うのも人間だし、そのシステムを利用するのも僕たち人間だということが分かります。

そう考えた時、結局は良いシステムを作るのも、システムを管理するのも人間なのだから、良いシステムを作ることを議論することよりも良い人間を作ることが大本なのではないかという答えにたどり着いたわけです。要は「教育」です。

良い人間を作ること、良い人間を育てることが出来れば、自ずと良いシステムが作られ良い運営がなされていく。

今現実に存在する数少ない良い人間?だけで議論し、良いシステムだと思われるものを作り運営したとしても。そのシステムを利用する人間が良い者でなかったり、あるいはシステム運営当初は良い人間が運営していたとしても、後任の責任者が良い人間でなかったとしたら、そのシステムは良いものではなくなります。

結局、その良いシステムを考える人間・運営する人間、利用する人間、この3者が共通して良い者であることが前提になければ。どんなに議論し実行したとしても、思うような成果は上げられない。ということが分かります。

「良い」などという言葉も、抽象的であまりセンスが良いものではありませんが。

結局のところ、3者が共に同じような価値観を認識していなければ、そのシステムは一部の人間にとっての完璧なシステムにしかならず。その他の人間にとってはマイナスに働く可能性を含んでしまいます。

加えて、3者が同じような価値観になること自体がそれこそ100%あり得ないことなので、どんなに人類が進歩したとしても完璧なシステムが完成することはない。という結論にたどり着きます。

これが5・6人くらいの小さなコミュニティであれば話はまた変わってきますが、1億も2億もいる世の中あるいは70億も80億もいる世の中ではどうしてもそうなります。

人間は常に思考する生き物であり。人によって欲が異なり、人によって物事の捉え方も異なるからです。

そのような十人十色の人間が混在するこの世の中では、誰にとっても完璧な社会など達成できないことは当たり前であり。完璧だと思われるシステムを作り実行したとしても思うような成果が得られないのはある意味当たり前であり。

そういったことを踏まえると、議論をすることは大いに結構なことですが、世の中を形成する根本である人づくり、人の教育を蔑ろにして、一部の頭の良い方・教育を受けたもの達だけで自分たちと直接関わりのない物事に対して議論し、ことを進めようと考えるのは、あまりにもナンセンス。

今一番重要なのは、一にも二にも教育。

教育システムを考えること。

教育システムを議論すること。

人間の教育を一番に考えること。

「今までと同じ教育カリキュラムで果たしてこれからの社会は大丈夫なのだろうか?」

あるいは、

「教育の格差をなくすためにはどうすればよいか?」

まず、何を差し置いてでもそこを議論する必要があると考えます。

社会全体の責任

敢えて極論を言いますが・・・

2人の子供がいたとして。一方は、18歳までに「社会に出た時上手く立ち回れる教育」を受けている。一方は、そういった教育を何も受けていない。

そのような2人の人間のうち、どちらがその後幸せな人生を送れる可能性があるかと考えた時。まさか後者であると答える方はいないと思います。

社会を生きていく上で必要な教育をなされている者となされていない者とでは、成人を迎えた際、明らかに幸せな人生を送れる可能性があるのは、しっかりと教育を受けたものです。このことについて異論を唱える方はいないはずです。

仮に、教育を受けていない者、あるいは間違った教育を受けたものがその後大人になったとき。社会的に良くない行為を行ってしまった場合、その責任はその本人にあることは勿論ですが、その人間が子供時分のときにしっかりと教育を受けさせてあげることが出来なかったという意味においては、僕ら大人・ひいては社会全体にも責任が生じるはずです。

生まれながらにして悪魔の心をもった人間が存在するのかどうかは分かりませんが、やはり多くの人間は子供の頃の環境・教育でその後の人生は変わるものだと思います。

大きく話が逸れていってしまいましたが、それほど教育は重要なものだということを伝えたいのです。

直接かかわりのある問題だけ

話を戻しまして。一部の教育を受けた人間、あるいは頭の良い人間だけが考え議論し、自分と直接関わりのない問題を解決しようとしても。それを運営・利用する者が同じように教育を受けたものでなければ、そのシステムが上手く機能するどころか、そのシステムを実施する以前よりも社会に歪が生じる可能性の方が高くなるかもしれない。ということ。

今、教育以外のシステムについて議論することが無駄とまでは言いません。現時点で出来ることを考えることは大切だと思います。

ただ、やはり最も重要なのは教育であり、社会を形成しているのは人間であるということを深く認識することが重要であり。

これから社会を形成していく子供たち、これから社会を担っていく子供たちの教育を真剣に考え議論し。一人でも多くの、所謂良い人間をつくることが出来たなら。限りなく平等に質の良い教育を提供することができたのなら。自ずと良いシステムは出来上がり、良い運営をされていくのではないかと。

頭の良い方達が必死になって自分と直接関わりのない問題について考えなくても、しっかりと教育を受けたものが自分と直接関わりのある問題について考えるようになれば。社会は勝手に良い方向に向かっていくということ。

要は、抽象的かつ言い方は悪いですが、問題を対処しようとする当事者の質をあげ、その人間が目の前のこと(社会)を改善することが一番ではないか。自分と直接的に関わる問題に対し、同じように質の高い教育を受けたものが考えることが一番ではないか。ということになるわけです。

その小さな改善が、至るところ至る地域で連続していくことが、結局のところ、国という大きな規模を改善していくのではないかということ。

当事者でもない外野があれこれ言ってもただの時間の無駄。目の前の自分自身が対峙していること。目の前の自分の手の内にある子供の教育。町政・市政・県政に関わる方であれば、その地域の教育制度・体制の見直しを最重要課題とする。いかにして教育の機会を平等にするか。

自分と直接関わりのない物事に対しては、敢えて何も言わず口を瞑っておく。

SNSで他地域と繋がることが出来る現在、他地域の物事と気軽に触れることができるようになった現在、何かと難しいことではありますが・・・